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ここで1人の本草学者が登場します。
彼の名は貝原益軒(かいばらえきけん/1630〜1714年)。
福岡藩に仕えた本草学者・儒学者です。
藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担いました。
幼少のころから読書家で、非常に博識だったといいます。
と同時に、書物だけにとらわれず自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていたようです。
また世に益することを旨としていたので、著書の多くは平易な文体で、より多くの人に判るように書かれました。
植物についての益軒の著述は1672年(寛文12年)に「校正本草綱目」の翻刻がなされたときに、その5巻に「品目」「名物付録」を執筆したのに始まると言われています。
益軒42歳のときです。この頃から自宅で植物栽培を行っていたと考えられます。
(先の「訓蒙図彙(きんもうずい)」が益軒が36歳のときのものですから、植物に興味があった益軒はこれを読んでいたかもしれませんね。)
そして1694年(元禄7年)には「花譜」が、1704年(宝永元年)には「菜譜」が発行されました。それぞれ益軒64歳、74歳のときです。
この「花譜」のなかで、益軒はヒマワリについて、「ひふがあふ」(日向葵)、「かうじつあふひ」(向日葵)の名をあげ、「日に向ふ」と記しています。
また、江戸一番の植木屋といわれた伊藤三之丞の著書「花壇地錦抄(かだんちきんしょう)」(1695)の中でも「日廻り」の名を確認することができます。
日本でも太陽の動きについて回ることが確認されていたのですね。
(つづく)
(written by apple)
彼の名は貝原益軒(かいばらえきけん/1630〜1714年)。
福岡藩に仕えた本草学者・儒学者です。
藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担いました。
幼少のころから読書家で、非常に博識だったといいます。
と同時に、書物だけにとらわれず自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていたようです。
また世に益することを旨としていたので、著書の多くは平易な文体で、より多くの人に判るように書かれました。
植物についての益軒の著述は1672年(寛文12年)に「校正本草綱目」の翻刻がなされたときに、その5巻に「品目」「名物付録」を執筆したのに始まると言われています。
益軒42歳のときです。この頃から自宅で植物栽培を行っていたと考えられます。
(先の「訓蒙図彙(きんもうずい)」が益軒が36歳のときのものですから、植物に興味があった益軒はこれを読んでいたかもしれませんね。)
そして1694年(元禄7年)には「花譜」が、1704年(宝永元年)には「菜譜」が発行されました。それぞれ益軒64歳、74歳のときです。
この「花譜」のなかで、益軒はヒマワリについて、「ひふがあふ」(日向葵)、「かうじつあふひ」(向日葵)の名をあげ、「日に向ふ」と記しています。
また、江戸一番の植木屋といわれた伊藤三之丞の著書「花壇地錦抄(かだんちきんしょう)」(1695)の中でも「日廻り」の名を確認することができます。
日本でも太陽の動きについて回ることが確認されていたのですね。
(つづく)
(written by apple)
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